教育支援員の備忘録

生徒主体の学校づくり

随所作主

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「咲けば散り散れば咲ぬる山桜
いやつぎつぎの花さかりかな(北政所 ねね)」

 

父が鎌倉の円覚寺の和尚様に教わった言葉である。「いつどこにあってもいかなる場合でも、主体性をもって行動するならば真実を把握出来、いかなるものにも翻弄される事はない。」
だが、文科省が個性や多様性を打ち出しても、その受け皿となる産業社会が存在していない。本来業務に見切りをつけてSNS上では副業投資が当たり前のように宣伝されているが、ライザップ風に言えば、私はそのレトリックにコミットできない。

相手に自分の考えを伝え、かつ考えさせる方法の基本は「講義」である。しかし、一定の考えを押し付けるかの如く一方的に喋り続けているだけでは、相手の共感を呼ぶこともなく実践もされない。何を学んでも、そこに自分というものが入り込んでいないのだから、功利的・打算的な見返り(例えば受験)がなければ学びは成立しない。

そこで、集団討議となる。中教審の「質的転換答申」では、参加する全員が討議を通じて得た結論は、自分が決めたこととして捉えることができるので、実践に移そうとする自律的行動が見られるようになるのではないか。と締めくくられている。
しかし、それぞれの考えを述べ全員で決めたはずなのに、後になって「自分の意見と違う」と不平を言いだす者が多いのも事実である。自らが考える態度を持つと同時に互いの意見を尊重し、メンバーの意見をまとめながら問題解決に導いていこうとする共同の精神が抜けているからである。

受け身の判断と行動では、結果発生に責任を伴わない目先の仕事に終わる。「苦労世代」である年代の人達に、何故か、与えられる事が当然という感覚で、仕事も楽々進むものと勘違いしている者が散見される。
論議のみで行動が伴わないのは、それぞれの経験則にのみ頼った意思決定という、都合の良い情報を求めているに過ぎない。課題に対しその問題の本質に正面から取り組み、自らの行動で納得できるものにしなければならない。単に労働力向上の手段と捉えてはならない。

困難に立ち向かい挑戦する勇気とは、組織の方針と目標を正確に捉え、自らの行動をメンバーに理解させ影響力を与える事である。これは、組織が人を生かそうと努力を積み重ねてきた結果から考案された「管理論」に関わる教養の技法である。